BOTAN BOTAN BOTAN
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 大永3年(1523)5月、光信公は武運長久、一門繁栄を祈願して八幡宮を創建し、社領15石を寄進した。
 この後、永禄12年(1569)に政信公が、慶長2年(1597)に為信公が(光信公の霊を合祀)、延宝6年(1678)に氏子中、天保3年(1832)にも氏子中が再建している。
 領内有名神社への藩主代参取止めの時でも、本社だけは代参が執行された。宮司は、代々奈良家が勤め、初代は、主水貞親で、現代は二十代目である。

 

○滋藤の弓及び鏑矢2本
 
○懸佛(光信公の館展示)、身正体ともいい。鏡面に神像が半肉彫されている。奈良家由緒書や伝承によると、初代主水貞親が、大和の国から首に懸けて来たものだと言われている。

○杉 4本
初代藩主為信公が八幡宮を再建した頃に植樹したもの。

 津軽藩始祖光信公居城。南部下久慈(岩手県久慈市)から36人の部将を率いて、種里(もとは立里)に入部したのが約500年前の延徳3年(1491)だった。南部氏との合戦で蝦夷ヶ島へ敗退した安東氏が津軽奪回の為に幾度も兵を送ってきたので、それに備えるために派遣されたのだと言われている。

 



  

  ○棟札(光信公の館展示)
  ・神社創建の棟札=光信
  ・種里の殿様経家
  ・藩祖為信の再建

 光信公は、津軽平野への進出を図り、大浦(岩木町)へ進出、一城を築いて嫡男盛信公を城主としておき、津軽全域平定の策を練ったが、事成らざるうちに種里で大永6年(1526)10月8日に没する。
 「武将の威儀を欠く事なく、甲冑に身を固め、刀を帯び、腰に大螺を下げ、立姿のまま、巽の方角に向けて埋葬せよ」の遺言どおりの姿で種里城の一郭に葬った。
 不思議なことに、今日にいたるまで、御廟所には一本の雑草も生えない。
 嫡男、盛信公は城郭の南方に長勝寺を建立し菩提寺とした。

 

 光信公御廟所

 

 奈良主水の墓

 

○獅子頭(光信公の館展示)、為信公寄進と言われている。